森を読む時間【2】

BOOK&MUSIC
2022.12.08(Thu)

お茶を淹れてひと息つく時間は、
豊かな日常のひとコマです。

ここでは、長野県富士見町で街の小さな本屋
<mountain bookcase>を営む石垣純子さんに

ゆったりと流れるお茶の時間を共にしたい
“森にまつわる本” を案内していただきます。

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「どんぐり」

 

「団栗」と書いて「どんぐり」と読むのだということを知ったのは寺田寅彦の随筆だった。

物理学者であった寺田寅彦(1878-1935)は、日常の暮らしの中で気づいたさまざまな事象を、科学者らしい観察眼と文学的な情緒ある文章で綴り数々の名随筆を残している。

私の手元にもいくつかの本があり、その中でも特に印象に残ったのがこの『どんぐり』だった。

 

土佐高知の旧家に一人息子として生まれ育った寺田寅彦は、早く後継が欲しかった父によって、6歳年下の夏子との結婚が早くから決められ、お互い10代のうちに夫婦となった。

その後お互い勉学のために熊本と高知に離れて暮らすのだが、親が決めた婚姻ではあったものの、その間も手紙のやりとりによって互いに愛を深め合い、寅彦が東大へ進んだ翌年、22歳でようやく妻・夏子を東京へ呼び寄せて二人で暮らしはじめ、わずかその二年後に結核により夏子を失うことになる。

 

『どんぐり』は、すでに寅彦の子を宿していた夏子が喀血した日の描写からはじまり、翌年、結核の療養のために2人が引き離される前に一緒に小石川植物園へと出かけた時の、公園でどんぐりを見つけて楽しそうに拾い集める夏子の美しい思い出と、数年後に彼女の忘れ形見である幼い娘と再び植物園を訪れた折に、同じようにどんぐりを集めて喜ぶ娘の姿を、かつての夏子との記憶と重ねて綴った短い随筆である。

 

大切な人と離れ離れになることも、その人と死をもってもう二度と会えなくなる心の痛みや喪失も、そう簡単に文章で表現できるものではないが、この随筆では、寅彦がほんの短い間しか一緒に暮らすことが叶わなかった妻との記憶を、感情の抑揚をなるべく抑えて綴ることで、寅彦が心の奥に閉じ込めた若き日の悲しみの深さが静かに伝わってくる。

 

ちなみにこの随筆については、寅彦の助手となり、のちに雪の研究で知られる中谷宇吉郎によって、寅彦の没後しばらくしてから書かれた『「団栗」のことなど』という、解説ともいえるような文章がある。

それにより、この随筆に書かれている寅彦と夏子の背景やその後をさらに知ることができる。

 

寅彦は生涯にわたって三度結婚している。

最初の妻・夏子とは24歳の時に死別した後、27歳の時に寛子と再婚しているが、寛子とも39歳で死別し、翌年40歳で紳(しん)と再婚。寅彦も度々病を患い、自らも病に倒れて転移性骨腫瘍により57歳で亡くなっている。

高知市の山の中にある寅彦の墓は、両親の墓と三人の妻のそれぞれの墓に挟まれて並んでいる。いつか訪ねてみたいと思う。

 

秋といえば地元を離れてから知った金木犀の甘くて切ない香りを思い出すけれど、どんぐりの実もまた、寺田寅彦の随筆によって私の中に刻まれた美しい風景である。

PROFILE | プロフィール

mountain bookcase

石垣純子

長野県出身。文芸書から絵本まで、新刊と古本を扱う小さな本屋<mountain bookcase>店主。2004年より約8年間ブックカフェの責任者を経て、2013年より移動書店の形態で活動をはじめる。2018年韮崎に実店舗を構え、2020年秋に地元の八ヶ岳の麓・諏訪郡富士見町に移転。人生に欠かせないのは旅と本。

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